「仮定」の無意味さについての考察。
今日は、高校時代の友人たちと、飲んだ。
そこで、わたしは長い間胸にひっかかっていたことが、
「あー、そういうことだったのね」
とわかって、すこしすっきりしたのだけれど、
それが、
「もし○○が、○○だったら、○○だったのに」
という過去に対する仮定で差し出されたため、すこし困惑した。
それはただの純粋な「事実に対する感想」として発せられたもので、
そのときは、特に何の感情も持たなかったのだけれど、
なぜ困惑してしまったのか、いろいろ考えたら、
「過去に対する仮定というのは、なんて無意味なんだろう」
という結論に達した。
実際に、過去に起きてしまって、とりかえしのつかないことに対し、
何かしらの仮定をたててしまうことは、よくある。
たとえば、
「あー、もしこのときにこれを売っていれば、もっと儲かったのに」
とか、
「あー、あのときあそこに行っていれば、あのひとに会えたのに」
とか。
実際には、そうなっていないのだから、
いくら考えたって、仕方がないのにさ。
それなのに、どうしてひとはそんな無意味な仮定をし、
その結果を考えてしまうのかしら。
それが反省や教訓になり、次へ生かされるのならばいいのだけれど、
実際のところ、そこまで昇華しきれずに、
ただの負け惜しみや、「がっかり」で終わってしまうことの方が多い。
歳を重ねるごとに、それが増えているような気がするので恐い。
逆に、未来に対する仮定は、とても有効だ。
わたしは何かをしようとするとき、
いつも最悪な状態を考え、
そうなったと仮定した場合の対処を考えたうえで、
その状態を回避するための対策をたて、
さらに、考えうるすべての選択肢を一応考慮する。
1つの物事に対して、たくさんの仮定をする。
そのせいで、無意識のうちに
過去についてもいろんな仮定をしてしまっているのだな。
過去を、潔く脱ぎ捨てられるようになりたい。
すっぱり忘れてしまうのとはちがって、
すぐに気持ちを切り替えられるように。
住み処を移る、ということは、膨大な取捨選択の連続です。
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